正しさはまず自分から。人は変えられないけれど、自分なら変えられる。そこから運が始まる

前回のお話の中で立派な教えの宗教を信仰している人であっても

その信仰する事自体が自分に合ってない生き方だと、

なかなかうまくいかなかったり、悩んでしまう事がある。

といったお話をしたのですが、

こういった感じの人が、根が真面目で(言い方が悪いのですが)

馬鹿正直だと、もの凄く生きるのが辛い状態に

陥ってしまう場合があります。

例えば、前回の知人の様に、

本来は自由奔放に生きていた方がうまく行くタイプの人が、

無理して教えにしたがって聖人君子にでもなろうとすると、

ある意味、自分とは違った別の人間になろうと頑張る訳で

しかもどんなに頑張っても自分とは違った人間にはなれないので、

いつしかその宗教でいう所の理想の人間になれない事に

苛立ちを覚えるようになってきます。

しかしそうなるとですね。

真面目であれば真面目な人ほど、自分が頑張っても出来ないので

他の人の無作法が目に付くようになってくるようになり、

自分では出来ない事は棚に上げて

自分より立場の低い人や、言い返せない人に対して、

その宗教で言われてる立派な教えを、

(相手が聞きたいと思ってもないのに)

無理やり教え聞かせようとする事があるのです。

しかもその教えというのが、普通の人なら

反論できないぐらい論理武装された教えなものなうえに

正論なものだから、気が弱い人とかだと言い返せないんですよね。

そこでそういった気が弱い人とかは、

(実は釈然とはしないものの)

確かに立派な考えなものだから

(あまり意味も分からずとも)

話をしてくれたその真面目な人を

褒めてしまう人もいる訳です。

しかし、実を言うと、当の本人は立派でもなんでもなく、

ただ、そこの宗教の教えを知ってるだけであって、

実践すらマトモにできてないわけで・・・

自慢にもならないのですが、

褒められたものだから、

たとえ自分では絶対にできない話であっても、

自分は偉いんだと勝手に勘違いしていい気分に浸る訳です。

そしてこれを延々と繰り返していくと、(言葉は悪いのですが)

頭でっかちの愚か者ができあがる。と言った寸法です。

ただこういった宗教の世界だけでなくほかの世界でも、

真面目な人というの自分らしく生きるのが苦手ですし、

生き方そのものが不器用な感じの人が多いです。

しかし、この真面目さというのは、長所でもあるので、

うまく活用できれば、楽しい人生が送れるようになるんですよね。

今回はなぜか、悪口ばかり言ってるような気がしますが、

宗教というのは、人を救う事もあれば、人を堕落させたり

人を迷わせたりもするので、

本当は注意していないといけないのですが

あまりにも無防備に無条件に信じすぎてる人が多い気がします。

しかしそういう事も含めて、全部自己責任になってきますので

何かあっても人(神)のせいにばかりしててはいけないんですよね。